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更新日時 2007年11月11日 (第一部 高校3年までの生立ち)
【私の生立ち】

嫁と子供達と幸せな日々を過ごしていると昔の事を振り返ることも少なくなっています。
35歳を迎え、急に自分の生立ちをなんとなく書いてみたくなってしまいました。
意外と書いていると面白くて時間を忘れてしまいますね。
書いていることは、事実なのですが、それでも若干控えめに書いています。
本当のことを書いたら当事者もまだ生存しているのでちょっと心配なので・・・・
それなりに面白く読んでいただけると思いますので、気軽な気持で読んでください。
感想なども気軽に頂けると嬉しいです。>>感想
生まれた場所 私の生まれた場所は、祖母より上野の産婦人科で産まれたと聞いている。
私がこの世に生を受けた瞬間には、私の父親は雀荘におり、生まれた知らせを聞いて雀荘から私を見にきたらしい。
詳細は、私の母親が他界していることと父親と縁を切っているため、不明である。
幼児の頃の私 私は、産まれてすぐ、池尻大橋に程近い、「目黒ハイツ」と言うマンションで暮らしていたらしい。
その後、育児の環境を考え、私の母親の姉が住んでいた町田市鶴川に住む事となる。
幼少3歳まで 私の父親は、詐欺師的な優れた営業能力を持っていたようで、大学卒業後、サラリーマン生活を数年でやめ、詐欺師的な営業トークで起業していた、当時、金回りは非常に良かったようだ。
周りからみていても裕福な生活を送っていた様である。しかし、根っからのギャンブル好きで遊び人の父親は、家に帰って来ないことが多く、私の母親もかなり悩んでいたようだ。
母親は、悩み苦しんだ末、親父と離婚することになった。
当時3歳だった私は、その後母親の顔を当然憶えていなかった。
3歳から幼稚園

離婚後は親父に引き取られた私であったが、親父のギャンブル、遊び人としての自由奔放な生活は変らない。
年に数回しか帰ってこないため、私は、父親の祖母に引き取られ、祖母と2人で生活保護を受けながら、ジリ貧の生活をしていたようだ。
このような状況の中、産みの母親は既に再婚していたが、一時、私は母親側に引き取られ、親権が移り、苗字が変っていた。
小さいながら私は苗字が変ったことを不思議に感じていたことを思い出す。
その後も、私を巡った親権問題で色々トラブルがあったようだが、結果的に父親側に再度引き取られ、また苗字が戻ることに・・・

私が幼稚園入学した頃、父親が再婚した。
私が寝ていると新しい母親だからと紹介を受けた。
この時母親は19歳だったらしい。
それから新しい母親との生活が始まる。
新しい母親は、酒乱で暴力もすごく、私はダースで発注された酒屋から届くビールを母親の機嫌を取りながらお酌していたことを思い出す。
夫婦喧嘩は毎日のように繰り返され、一度夫婦喧嘩が始まると、皿が投げられ散乱し、大型冷蔵庫が倒れ、特に衝撃的だったのは、投げられた黒電話が真っ二つに割れたことがあった!
最後の最後は、母親が台所に走り、包丁を持って私の父親を刺そうとするシーンを何度か見た。
知り合いの人が駆けつけ羽交い絞めにされ難を逃れたが、私は、怖くなり泣きながらベランダに逃げたり、他の家の人に助けてもらったり、毎日荒んだ生活を送っていた。
そんな生活を見かねた祖母は私を引き取り、再び祖母と2人で生活することになる。

小学校時代 祖母の家には、相変わらず親父は帰ってこない。
この普通ではあり得ない生活が、私の中では普通になっていた。
私は、鶴川第四小学校に入学することになったが、入学式の時、偶然帰ってきた親父が出席することになり、小学校の入学式には親父と写った写真が一枚だけある。
これは奇跡的なことだった。
親父は、これを最後に全てのイベント(入学式、卒業式、誕生日、クリスマス)に立ち会うことはなかった。
数年に1回適度帰ってくることもあるが、その時は、だいたい金が底を付き、祖母の年金を借りに来る事が目的だった。
最終的に祖母は貸すことになるのだが、貸した日から当然消息不明となる。
またいつもの事だが、行方不明届を出すことになる・・・
本当に最悪の父親だった。

行方不明の間にも親父は、再婚した母親とトラブルを起していたらしく、再婚した母親の怒りは祖母や私に向けられ嫌がらせが頻繁にあった。
深夜に鳴り続けるイタズラ電話、脚の悪い祖母が隣の部屋まで起きて電話にでると切られる日々が数年続いた。
我が家では、深夜の電話機に座布団が何重にも重ねて、うるさくならないようにするのも私たちの日常になっていた。
その他、頼んでいない寿司の出前が届いたり、嫌がらせは止まらなかった。
一番辛かったのは、祖母の家に再婚した母親の親族が勢揃いで殴り込み来た時である。
私は、怖くて隣の部屋で寝たふりをしていたが、祖母は親父の事で散々罵倒され!最後は、私を人質として連れて行く!などと隣の部屋から聞こえてきた。
その時の台詞はこうである
「しょうがね〜な〜!それじゃ〜康治を連れていくしかね〜な〜!」でした!
泣きながら、それだけは許して欲しいと頼み込む祖母を振り払い、私の枕もとに来た再婚した母親は、実家の田端の小学校に連れて行くからと私を説得していた。
私は、とっさに友達と別れるのがヤダと泣いて抵抗した記憶がある。
その後も祖母と私の辛い生活は続き、借金取りが来て、玄関の壁をぶち抜かれたり、修学旅行に参加したくても行くお金もなく、当然私がダダをこねていると、質屋に着物などを持っていって(私も風呂敷を持って手伝っていたけどね・・)私を修学旅行に連れて行ってくれた。
質屋の帰りには必ず回転寿司に連れて行ってくれる優しい祖母だった。
私は祖母が居なければ絶対に生きてこられなかったと思う。
中学時代 結果的に小学校の6年間で親父が帰ってきたのは何回あったのだろうか?
後から聞いた話だが、その頃の親父は川崎駅ビルに住んでおり、私の二番目の母親は、川崎のソープに勤めていたらしい。
そんな中、私は祖母に育てられ、無事「真光寺中学校」に入学した。
小学2年の頃から始めている野球は、中学になっても続けていた。
また、中学から進学塾にも通っていた為、勉強は結構していた方だと思う。
私は、こう見えても「数学と英語」はかなり勉強していたので、偏差値で言うと63〜64辺りだった。
クラスでいうと4番、5番目といった所だろうか?私自身は、私の父親が遊び人だったので、良い意味反面教師となり、良い学校に入るべく勉強はしていた。
中学三年になると受験に向け更にスパートをかけ勉強はしていたが、小学校、中学校と続けていた野球が(エースとして何度も優勝していた功績)関係者の目に止まり、野球の推薦の話もきていたのである。
私は高校でも野球を続ける覚悟はあったので、自ら希望した日大鶴ヶ丘高校のセレクションを受けることになった。
セレクションは、9名の枠しかなく結構厳しいものだったが、約50名セレクションを受け、運良く推薦枠の9名中1名に選ばれ、日大鶴ヶ丘高校に進学することが決まった。
しかし、私の気持として野球推薦で入学することは後ろめたかった為、一般入試での合格を目指し、勉強は引き続きしていた。
日大鶴ヶ丘はその当時、女子偏差値67、男子偏差値63と入学するにはそれなりの厳しい高校であった。
しかし、これも運が良いことに一般入試でなんと合格!これも運命なのか?しかし最後の心配事は、遊び人の親父が入学金を払えるかどうかが心配だった。
高校時代

入学金は、親父が何とか工面し無事高校に入学、しかし中学卒業の次の日から始まる野球の練習の厳しさに衝撃を受けた。
76キロあった体重が、1週間で64キロまで落ちた。
上下関係の厳しさと練習量が桁外れだった。
その当時、私は学校の授業は完全に寝ていた。
逆に寝ないと絶対に付いていけなかった。
放課後は、ホームルームが終わるとグランドまでダッシュが決まり事で、途中を歩いている先輩には一人一人に挨拶するのが礼儀だった、「チワー、チワー、チワー、チワー、チワー」と人数分の挨拶。
毎日続く厳しい練習と先輩のイジメ、プレッシャーの中、本当に何度辞めようと思ったことだろうか。
1年の頃は帰りの飲食は禁止されており、飯を食わずに毎日祖母の家に帰れるのは22時30分頃で翌朝は朝練で4時頃起きて始発電車に乗る日々を繰り返していた。
そんな地獄の苦しみの中、親父が懲りずにまた再婚した。
今度は、国産ではなく外車のようだった、結婚相手は、台湾人の方で飲み屋のホステスとして新宿で出会ったらしい、私は、親父から相談は受けたが親父の人生なのでまったく気にすることなく、「いいんじゃない!」と軽く了解した。
ここからまた私と親父と台湾母親との生活(場所は永福町)が始まる事になった。
更に台湾母親には連れ子が2人居た為(台湾に居る兄と一緒に連れていた娘)、兄弟の居ない私が急に三人兄弟になった。
私は、近所の噂ではハーフと思われていた。(笑)まじで笑えるでしょ!
しかし、再婚しようが、やっぱり親父は親父だった。
野球が終わって帰ってくると、親父も台湾母親も帰ってこない暗い家に帰ることになっていた。
練習も厳しく、先輩のプレッシャーも厳しい中、本当に精神的に参っていた。
追い討ちを掛けるように、頭がツルツルのサラ金屋が家で待っていることすらあった。
最後はガスも止められたっけ・・・
当然のことながら、授業料も滞り、学校で先生から軽くプレッシャーを掛けられていた自分は、野球も辛く先輩からもイジメられ、学校の授業料も払えず、高校を辞めることを決断する。
高校を辞めることを久々に帰ってきた親父に相談すると、「金が大変だから助かるな〜!」のきめ台詞!この一言で何かが自分の中で弾けた気がした!「てめぇ〜遠山の金さんかぁ〜!」と心で思い!お互いにむなぐらを掴みながら大喧嘩をして深夜にバイクで家を飛び出した!この時、尾崎の歌が自分の頭の中で流れていた!「盗んだぁ〜バイクで走り出すぅ〜」どうなってもいいかな?と思っていた!ま〜曲のようにバイクは盗んでなかったけどね〜・・・
飛び出してから当然、路頭に迷い、知り合いを尋ねてそば屋の出前のバイトを見つけた。
私は、これからは丸刈りをしなくていいし、リーゼントにでもしようかな!なんて親父から離れた喜びと自立したことによって希望に満ち溢れていた。
明日からそば屋の初出勤のときに、自分と同じ境遇だった親戚の兄貴の家にブラッと立ち寄った。
これも偶然ではなく今考えると必然だったのかもしれない。
高校を辞めると親戚の兄貴に話した瞬間に、辞めたら縁を切ると怒鳴られた!
正直なところ、その当時の自分には、野球部に戻るのが恐ろしかった。
当然、何日も無断で休んでいるわけだから、戻り次第先輩に殺されるだろうし、授業料も払えないと思っていた。
親戚の兄貴は俺が払ってやるといってくれた。私を心底心配してくれる人はこの世の中にいないと思っていたので、親戚の兄貴の一言は本当にうれしかった!
この出来事が私の高校を辞めずに済んだ分岐点だったのかもしれない。

私は、その後、自分の住む場所をどうしようかと路頭に迷っているとき、ふと!数年前、祖母から渡されたメモを思い出した。
それは、私が3歳の時に離婚した産みの母親の電話番号だった。
無くさずに財布に入れてあったのである。
祖母から渡された当時は、今更会いたくね〜よ!と思っていたが、ここで思い出したことも何かの縁だと思い、電話することに・・・・電話で母親の声を聞いた瞬間に私は涙で話せなくなっていた。
母親も「ごめんね〜!ごめんね〜」と繰り返すばかりだった。
たぶん短い会話しかしていなかったと思うが、助けを求める思いで一緒に住ませて欲しいと頼んでいた。
産みの母親は快く了解してくれた。そんなきっかけで私は、産みの母親と10年ぶりに再会し、一緒に生活することになる。
これが高校1年の頃の出来事である。

それから2年間は、産みの母親と不動産をしている義理のお父さんと心配のない安定した生活をしていた。
相変わらず、野球部の活動は、地獄の上下関係と地獄の練習を繰り返していた。

今も思い出す!3年最後の夏の大会
順調に勝ちつづけた我がチームは、西東京決勝を向えていた!場所は神宮球場、強豪世田谷学園との試合!鶴ヶ丘リードで進んだ最終の9回裏、最後のバッターが打った球はセンター後方へ高く舞い上がった!
イメージとしては、いつまでも球が落ちてこない感じ・・・・
スローモーションでスタンドの声も聴こえず時間がゆっくり過ぎていく!
なんだろう?この感覚はぁ〜

そのセンターフライをガッチリキャッチした瞬間!我に返る!

俺達は、甲子園の切符を手にすることができた!

なんだろう?今までの苦労が走馬灯のように思い出され、自然と涙が溢れていた!
そんな自分にスタンドがエールをくれた!
「なっかにしぃ〜!なっかにしぃ〜!なっかにしぃ〜!」
泣いている私の耳に大歓声が聞こえてくる。
私はそのエールに泣きながら左手をあげ応えた。
なんともスタンドと一体化した瞬間だった!

今でも、その当時の懐かしい思い出(バカ話)を酒の肴に語り合える仲間がいる。
これって金にかえられない財産だと私は思う。

もう一度、高校時代に戻って野球をやりたいか?と問われれば、「間違いなくNO!」だが、
あの野球部で過ごした高校3年間は私にとって輝いていたし最高だった!

結果的に我がチームは、甲子園でBEST8まで行くことができた。
一番思い出深い試合は、第2戦「徳島商業」との試合。
緊迫する同点で争っていた延長戦で放たれた、四番石井のスリーランでした。
スタンドが泣きに泣いた!一発です。
私も一生忘れることができません。
こちらも動画をUPしましたので是非見てみて下さい。

※見るポイントとしては、セカンドにいるキャプテンが相手のチームのキャッチャーが出している
 ピッチャーへのサインを盗み、打席に入っている石井に直球インコースのサインを出した。
 そのサインをもとに狙いすましたように石井が真芯でかっ飛ばします!
 3球目なので!お見逃しなく!
 >>動画はこちら

ちなみに甲子園の土も未だに持っている!ちょっと自慢!欲しいでしょ!

■甲子園エピソード

甲子園の初戦が、あのメジャーに行った松井選手がいる星陵高校だった。
その当時の松井選手は、1年生だったがすでに四番だった!やはり当時からゴジラは怪物であった。

のちのち、私が34歳の時、仕事の疲れを癒しに、よみうりランド「丘の湯」と言うサウナで汗をかきながらテレビを見ていると「世界でもっとも受けたい授業」という番組だったと思うが、松井選手が先生として出演されており、クイズの中で「松井選手がある試合の打席で緊張して震えが止まらず、まったく打てる状況ではなかったことがある。あの松井選手が野球人生の中でいったいどの打席でこのような状況に陥ったのか?」という問題が出題された。
何気なくテレビを見ていると、正解VTRが流れ、俺達のエースが甲子園で投げている懐かしいシーンが放送されていた。
おー難波じゃね〜か!と心で叫んでしまった。
正解は、我が野球部と対戦した甲子園の「初戦の初打席」があのゴジラ松井を緊張で震え上がらせたと言うことだった。松井選手が語っている姿をみて、一人で「すげ〜!すげ〜!」と心で叫び!これ私がいた野球部ですよ〜!とサウナにいる皆に言いたい気持で一杯だった。結構すごいエピソードでしょ!



私は、そんなこんなで野球地獄だった為、高校時代まったく勉強せず、当然大学推薦も厳しかった。
しかし、誰よりも私はカンニングが得意だった為、あらかじめネゴっておいた女の子に大学の推薦を決める統一テストを見せてもらう約束をしていた。
カンニングは完璧なまでに順調であったが、ここで落とし穴があった!数学だけは、他のマークシート系の問題とは異なり、途中の計算式が必要だった、泣く泣く自分の実力でやったところ、まんまとボロボロ!その他のテストは隣の頭の良い女の子と同じ点数だったが、大学推薦の道は断たれた。
所詮不正は不正でやっぱり良い方向にはいかなかった。

ま〜!すでに勉強も嫌いになっていた私は、自立に向け働くことを考えていた。
この当時、働いたら、家にお金を入れなさいと産みの母親に言われていた、今考えると普通で当たり前のことだが、その当時の私は素直ではなかった。
どうせ働いて払うなら苦労して育ててくれた祖母に払いたいと話したところ、母親と口論となった、この時を境に、私は産みの母親の家にまったく帰らなくなっていた。
今思うと、産みの母親の家にいた2年間は、離婚して母親と会っていない時間があまりにも長かったし、義理の父親もいたので、馴染むことができず、基本的に敬語で話していた。
今思うとぎこちない関係でよそよそしく息苦しさもあったのかもしれない。

やっぱり母親とは、小さい頃から一緒に過ごしたかった!というのが本心かな〜と感じる。

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